昭和12年12月の南京戦、その真実はどのようなものだったのでしょう!?
日本軍は、昭和12年12月13日に南京に入城しました。
ところがそれ以前に南京市民は、ジョン・ラーベら米国人の「国際委員会」が結成した
「南京安全区」に集められていました。安全地帯の外は、無人状態だったのです。
難民収容所のあった安全地帯に隔離され、保護された南京市民達。
日本軍の厳重な監視下に置かれていたため、虐殺・暴行・強姦などは
起こりようもありませんでした。
『WiLL増刊12月号「南京大虐殺」』に、
「生き残り参戦勇士9人が語る「南京事件」の真実」という特集が組まれています。
稲垣 清氏は、当時第16師団の獣医官として従軍されました。
12月16日に南京に入城し、45日間留まるも虐殺の痕跡を見た事がないとか。
南京場外から帰還してきた市民は、賑わいを取り戻し、
時計屋・記念写真屋・饅頭店も営業を始めたそうです。
喜多留治氏は、第9師団第6旅団歩兵伍長でした。
市民は平穏に暮らしていた様子を報告されています。
近藤平太夫氏は、光華門制圧後の南京の状況について、
難民区は見なかったが場内は極めて平穏で、日本兵相手の露店が商売をしていたと
証言されています。
古沢智氏は、南京入城後退去命令によってすぐに南京を出たそうです。
師団長による、無益な殺生を避けて敵に退却する猶予を与える為の計らいだそう。
このような日本軍が、どうして「南京大虐殺」に加担するのでしょう!?
斉藤敏胤氏は、南京城内は治安が確保され平穏であった事、部隊は軍の命令を
よく守った事を証言されています。
納谷 勝氏は、安全地帯警備には軍紀厳正な部隊が担っていたと証言。
安全地帯の難民の数20万人が、日本軍滞在中減少していなかった事からも
「南京大虐殺」などあり得ないと仰っています。
永田尚武氏は、一旦城内に入った後は安全地帯には入らず、17日には南京を
去っています。
わずかに残っていた中国人と穏やかに談笑したものの、南京市民と接触する機会は
殆どなかったそうです。市民数十万人虐殺など、あり得ない話でした。
市川治平氏は、言われます。
「郷土の恥となるようなことは
お互い自制しあって、慎んだものであった。」
「犯罪者の汚名を着ては
郷土に頭を上げては帰れないのである。」
昭和12年12月13日、南京突入時は市民の全員が安全区に避難していたそう。
12月15・16日頃の南京城内では、市民によって露店が営まれ、中国人警官に
よって護衛されていました。
日本軍は将校といえども、軍の許可なく安全区への立ち入りは禁止されていた。
これら生き残り参戦勇士の方々の証言により、
「南京大虐殺」など、起こりえる筈がない。
当時、南京攻略戦最高司令官であった松井石根大将は、
それは厳しい軍紀を保ち、且つ情の深い方でいらっしゃいました。
貴方は、「南京大虐殺」が本当にあったと信じられますか!?
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映画『南京の真実』の製作発表は、2007年1/24に日本文化チャンネル桜によって行なわれました。 昨年は南京事件70周年にあたり、「南京大虐殺」をテーマとする反日映画が12本作られていると言われています。 当blog(ブログ)では、you tube(ユーチューブ)動画も交えながら真相をご紹介します。